凪の底

三十七歳になった朝、田中慎一は鏡を見なかった。

洗面台の前に立ち、水を出し、顔を洗い、タオルで拭く。その一連の動作のあいだ、視線はずっと排水口に落としたままだった。

意識的にそうしているわけではない。いつからかそうなっていた。

気づいたのは去年の秋ごろで、なぜそうなったのかはわからなかった。

鏡を見るのが怖いというほど大げさな話でもない。ただ、見る必要を感じなくなっていた。どうせそこには、昨日と同じ男がいる。それだけのことだった。

 妻の声がリビングから聞こえてくる。子供たちが牛乳をこぼしたらしかった。

「もう、何やってるの」

 叱る声ではなかった。疲れた声だった。

慎一はタオルをハンガーに戻し、ネクタイを締めながら廊下を歩いた。テーブルの上では七歳の娘が泣きそうな顔をしていて、五歳の息子はすでに泣いていた。

妻がキッチンペーパーで白い水溜まりを拭いている。慎一は「大丈夫か」と息子の頭に手を置いた。

何が大丈夫なのかよくわからないまま言った言葉だった。息子は泣き止まなかった。


 会社では、後輩の木村が新しい企画を通した。

若い、二十四歳だ。プレゼンのあと、部長が珍しく声を上げて笑っていた。会議室に拍手が起きた。慎一も叩いた。自分の手のひらがぶつかる音を、少し遠くで聞いていた。

 デスクに戻り、コーヒーをひと口飲んだ。

 悔しい、とは思わなかった。

 正確に言うと、悔しいという言葉が、自分の内側のどこにも見当たらなかった。

あるべき場所を探しても、そこにあったはずのものが、すでにない。抜けた歯の穴を舌でなぞるような感覚だけがあった。

昔は違った。二十代のころは、他人が褒められるたびに腹の底が熱くなった。その熱が嫌いで、しかし手放したくもなかった。それが今はない。静かすぎる。

「田中さん、どうでしたか」

 木村が隣に来た。得意げではなく、むしろ不安そうな顔をしていた。

承認を求める目だ、と慎一は思った。この歳になると、人の目の種類がわかるようになる。

自信の目、恐怖の目、疲れた目。木村のそれは、純粋に怖がっている目だった。昔の自分も、こんな目をしていたかもしれない。

「よかったよ」と慎一は言った。「本当に」

 嘘ではなかった。本当によかった。ただそれだけで、それ以上でも以下でもなかった。

木村は少し拍子抜けしたような顔をして、「ありがとうございます」と言って自分のデスクに戻った。慎一はその背中を一瞬だけ見て、また画面に目を戻した。


 昼休み、慎一は一人でコンビニのサンドイッチを食べた。

公園のベンチに座り、鳩が足元をうろうろするのを眺めながら、特に何も考えなかった。

考えようとすると、考えるべきことが多すぎて、結局何も考えないまま時間が過ぎた。

住宅ローンのこと、子供の学費のこと、母親の体のこと。どれも輪郭がぼやけていた。

緊急ではないが、重要だ。そういうものが増えていく一方で、自分の中の何かが少しずつ薄くなっていく感覚があった。

何が薄くなっているのかは、うまく言えなかった。


 帰り道、慎一は駅のホームで電車を待ちながら、父親のことを考えた。

 父は寡黙な人間だった。感情を表に出すことを、恥だと思っているふしがあった。

慎一が小学校のマラソン大会で一位をとったとき、父はただ頷いた。

二位だったときも同じ顔をしていた。泣いて帰ってきたときは、「男だろう」と言った。それだけだった。

追い打ちをかけるわけでも、慰めるわけでもなく、ただ「男だろう」と言って新聞に目を戻した。

 慎一はその言葉を憎んだことがない。不思議なことに。傷ついたという記憶もあいまいだ。

ただその言葉は、いつのまにか自分の骨格の一部になっていた。

意識せずとも、そこにある。泣きたいとき、弱音を吐きたいとき、何かが喉元まで来るたびに、あの言葉が静かに栓をする。

 電車が来た。

 乗り込んで、つり革を掴んで、目を閉じた。揺れる車内で、向かいに座った老人がうとうとしていた。

口が半開きになっていた。ああなっていいんだな、と慎一は思った。何に対する許可なのかわからないが、そう思った。

 ふと気づいた。今日、誰かに「大変だったね」と言われたかった。

 その気持ちが、確かにあった。木村の企画が通ったあの会議室で、拍手しながら、誰かに声をかけてほしかった。

お前も頑張ってるよな、と。そんなことを言ってくれる人間は、この会社にいない。いないというより、そういうことを言い合う場所が、いつからかなくなっていた。

 それに気づいた瞬間、何かが喉の奥で小さく動いた。

 情けない、と思うより先に、ただそういうことか、という静かな納得があった。三十七年かけて、ようやく一つわかった。

自分はずっと、強くあろうとしていたのではない。弱いことを、知られたくなかっただけだ。強さと臆病は、外から見ると同じ形をしている。


 家に帰ると、妻が夕食を作っていた。子供たちはもう風呂に入っていて、湯気の匂いと、シャンプーの甘い香りが廊下まで漂っていた。

台所に立つ妻の背中を見て、慎一は何か言いかけて、やめた。

何を言えばいいのかわからなかった。

今日あったことを話す気にもなれなかったし、かといって黙って座るのも、何か違う気がした。

「疲れた?」と妻が振り返らずに言った。

「まあ」と慎一は答えた。

 それだけだった。でもその「まあ」の中に、少しだけ本当のことが入っていた気がした。

妻が気づいたかどうかは、わからない。鍋をかき混ぜる音が続いた。

慎一は椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見た。空はもう暗く、ガラスに自分の顔が薄く映っていた。

 今日はじめて、自分の顔を見た。

 知らない人間みたいだった。でも、まあ、これが自分なのだろうと思った。

醜くもなく、格好よくもなく、ただそこにいる男。三十七年分の何かを、その顔は静かに収めていた。

 風呂から子供たちの笑い声が聞こえてきた。妻が「ご飯よ」と言った。慎一は立ち上がった。

 鏡を、明日もちゃんと見てみようと思った。今日みたいに、窓ガラス越しじゃなくて。

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