小説「言葉の賞味期限、態度の体温」

「もう、好きって言ってくれないよね」

夕食の途中で、妻が言った。

箸を持ったまま、 茶碗の前で、 静かに。

俺は何も言えなかった。

「……言ってるだろ」

「いつ?」

返せなかった。


いつ、言ったか。

記念日に言ったかもしれない。 誕生日に言ったかもしれない。

でも「かもしれない」では、 たぶんダメなのだ。

妻はそういうことを、 ちゃんと覚えている。 俺は覚えていない。

それが、すでに答えだった。


食事が終わって、妻は先に風呂に入った。

俺は一人でシンクに立って、 皿を洗いながら考えた。

俺は、彩を愛していないのか。

違う。 そんなわけがない。

毎朝六時に起きて、ゴミを出す。 彩が「重い」と言っていたから。 もう三年、欠かさずやっている。


先月、タイヤの空気圧を確認した。

彩の車が、心なしか傾いている気がして。 ディーラーに持って行って、四本全部調整した。

彩は気づいていない。 気づかせるつもりもなかった。

「やっておいたよ」と言うのは、 なんか、違う気がした。

褒めてほしいわけじゃない。 ただ、大丈夫でいてほしかっただけだ。


先週の土曜、彩が風邪をひいた。

熱は大したことなかったが、 俺は午前中に薬局に行って、 いくつか薬を買ってきた。

スポーツドリンクと、ゼリーと、 彩が前に「これ好き」と言っていた喉飴も。

「買いすぎ」と彩は笑った。

でも俺は、それで十分だった。 笑ってくれれば、それでよかった。


「好きだよ」という言葉は、 俺にとって、軽くない。

言い慣れた言葉より、 言い慣れていない言葉の方が、 重さがある気がする。

毎日言ったら、摩耗する。 毎日言ったら、当たり前になる。

言葉には、賞味期限がある。 そう、どこかで思っている。


でも、彩にとっては違うんだろう。

言葉は、摩耗しない。 毎日聞いても、古くならない。

「好きだよ」は、言われるたびに新しい。 そういう感覚が、彩にはあるのかもしれない。

それが俺には、まだわからない。

わからないまま、 タイヤの空気圧を確認している。


風呂から出てきた彩が、 リビングのソファに座った。

俺は隣に座った。 特に理由はなかった。 ただ、隣にいたかった。

しばらく、二人でテレビを見た。

彩が、少しだけ俺の方に体を寄せた。 さっきの話の続きをするつもりかと、少し身構えた。

でも彩は何も言わなかった。


「ゴミ、いつもありがとう」

しばらくして、彩が言った。

「気づいてたのか」

「ずっと前から」

俺は少し、照れた。 照れたことが、また照れくさかった。

「タイヤも」

「え」

「先月、乗ったら全然違った。気づかなかったと思ってた?」

俺は黙った。 何と言えばいいか、わからなかった。


「言ってくれればよかったのに」

彩がそう言った。

「……言うような話でもないだろ」

「そういうとこだよ」

彩が笑った。 責めていなかった。 呆れていた。 でも、温かかった。


「言葉にしてくれないと、わからないんだよ」

彩の声は、静かだった。

「全部やってくれてるのは、わかってる。ありがたいとも思ってる。でも、声に出してくれないと、伝わってるか不安になる」

俺は、それを聞きながら、 ずっと胸の中を泳いでいる言葉のことを思った。

好き、という言葉。 ずっとそこにある言葉。 でも、なぜか外に出てこない言葉。


「……好きだよ」

小さな声だった。 テレビの音の方が、大きかった。

彩は少し間を置いて、

「聞こえた」

と言った。

それだけだった。

それだけで、俺の中の何かが、 少しだけほどけた気がした。


言葉と行動は、どちらが愛情か。

答えは、たぶん両方だ。 どちらが欠けても、 相手には届かない。

俺はずっと、行動だけで十分だと思っていた。 でも行動には、音がない。

声にならない愛情は、 相手の耳に届かない。


その夜、彩が先に眠った。

俺は明日のゴミ袋を、玄関の前に置いた。 いつもより、少し丁寧に。

そしてスマホを手に取って、 ひとこと打った。

「おやすみ、好きだよ」

送信して、すぐに画面を伏せた。

照れくさかった。 でも、言えた。

言葉にも、体温はある。 ちゃんと、あるんだと思った。

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