小説「既読スルーの聖域(サンクチュアリ)」

土曜の昼、カーテンを閉めたまま起きた。

時刻は十一時。
光の入らない部屋は、静かで、薄暗くて、完璧だった。

スマホを見た。
菜々から、三件。

「おはよ」
「今日暇?」
「ねえ」

俺は画面を伏せた。
既読はつけなかった。


悪意はない。
嫌いになったわけでもない。

ただ今日は、誰の「何か」にもなりたくなかった。

彼氏でも、部下でも、息子でも、友人でも。
名前のついた役割を、全部脱ぎ捨てたかった。

コントローラーを手に取った。
起動音が、部屋に響いた。

それだけで、少し息ができた。


俺の仕事は、人を相手にする仕事だ。

毎日、誰かの顔色を読んで、
誰かの期待に応えて、
誰かのために言葉を選ぶ。

それが嫌いなわけじゃない。
でも、それをずっと続けていると、
自分の感情がどこかに行ってしまう。

正確には、感情をどこかに置き忘れたまま、
体だけが動き続ける感じ、だ。


ゲームの中には、余計なものがない。

敵を倒す。
レベルが上がる。
それだけだ。

誰かに気を遣わなくていい。
何かを察しなくていい。
正解を探さなくていい。

ただ、目の前の画面だけを見ていればいい。

それが、俺には必要だった。
定期的に、どうしても必要だった。


昼過ぎ、スマホがまた光った。

「浮気してる?」

菜々からだった。

俺は画面を見つめた。
返したいのに、言葉が出てこなかった。

「違う」の三文字を打てばいい。
でも、指が重かった。

言葉を打つ、ということが、
今日の俺には、小さくない負担だった。


これを説明するのが、難しい。

「一人の時間が必要」と言うと、
「私といたくないの?」になる。

「疲れてる」と言うと、
「私のことも疲れる?」になる。

どう言っても、傷つけてしまう気がして、
結局、何も言えない。

既読スルーは、拒絶じゃない。
でも、そう見えるのはわかっている。

わかっていて、それでも返せない。
それが、今日の俺の正直だった。


夕方になって、腹が減った。

冷蔵庫を開けると、昨日の残りご飯があった。
レンジで温めて、醤油をかけて食べた。

旨かった。
誰かと食べる飯より、旨かったかもしれない。

罪悪感があった。
でも、それより先に、満足感があった。

その順番が、また、罪悪感を呼んだ。


夜になって、ようやくスマホを開いた。

菜々からのメッセージは、合計七件になっていた。

「浮気してる?」
「なんで返事しないの」
「怒ってる?」
「ねえ、生きてる?」
「もういい」
「…心配してるんだけど」
「電話していい?」

最後の一件は、一時間前だった。

俺は少し、自分が嫌になった。


「ごめん、寝てた」

嘘をついた。

本当のことを言う言葉を、まだ持っていなかった。
「何もしたくない日があって、今日はそれだった」

それだけのことが、なぜこんなに言いにくいのか。

弱いからじゃない、と思いたい。
でも、たぶん、少し弱いのだろう。


「よかった。心配した」

菜々は、それだけ返してきた。

怒っていない。
責めていない。

俺はその返信を、三回読んだ。

ありがとう、と思った。
でも、それも送れなかった。

既読だけつけて、またスマホを置いた。


消えかけた画面の中に、自分の顔が映った。

情けない顔でも、悪い顔でもなかった。
ただ、疲れた顔だった。

男には、穴にこもる時間が必要だ。
誰かに言ったら笑われそうだから、誰にも言ったことがない。

でもそれは本当のことだ。

感情のスイッチをオフにして、
何者でもない自分に戻る時間。

それがないと、俺は誰かの「何か」であり続けながら、
少しずつ、ほどけていく。


次の週末こそ、ちゃんと会おう。
菜々に、旨いものを食べさせてあげよう。

そう思いながら、俺はまたコントローラーを手に取った。

今夜だけは、もう少し。
ここにいさせてくれ。

誰にも届かない声で、そう言った。
暗い部屋が、静かに返事をした。

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