小説「役に立たない俺に価値はあるか」

皿を割ったのは、午前十時だった。

洗い物をしようとして、 濡れた手で滑らせた。

白い皿が、シンクの縁に当たって、 二つに割れた。

「もういいよ、私がやる」

妻の声が、静かに飛んできた。


俺は、何も言えなかった。

拾いかけた破片を床に置いて、 台所から出た。

リビングのソファに座って、 テレビをつけた。

何も見えなかった。

「もういいよ」の四文字が、 頭の中でずっと鳴っていた。


転職活動を始めて、四ヶ月になる。

前の会社を辞めたのは、自分の意志だ。 環境を変えたかった。 もう一度、やり直したかった。

最初の一ヶ月は、まだよかった。 面接の準備をして、履歴書を書いて、 何かに向かっている感覚があった。

でも今は、ただ毎日、返事を待っている。


家にいる間、俺は役に立とうとしていた。

掃除機をかけた。 洗濯を干した。 買い物にも行った。

でも妻のやり方と違う。 妻の段取りと、かみ合わない。

「そこじゃなくて」 「それはあとでいい」 「違う違う、こっちから先に」

だんだん、何もしない方がいいのかと思い始めた。 それでも、何もしないでいる自分が、もっと嫌だった。


男は、役に立っているときだけ、 自分がここにいていいと思える。

そういう生き物だ、と俺は思っている。

愛してるとか、好きだとか、 そういう言葉は、もちろん嬉しい。

でもそれより先に、 「お前がいると助かる」という言葉が必要だ。

論理じゃない。 感情だ。

どこかで覚えた感情じゃなくて、 生まれたときから、骨の中にあるやつだ。


父のことを、思い出した。

定年退職した父は、しばらくの間、 毎日台所に立ち続けていた。

母に怒られても、やり方を直しても、 なぜかやめなかった。

子どもの頃は、意味がわからなかった。 今なら、少しだけわかる。

やめたら、自分の居場所がなくなると思っていたんだ。 家の中に、自分の役目を作ろうとしていたんだ。


昼になって、妻が声をかけてきた。

「ご飯、食べる?」

「いらない」

俺は答えた。 腹は減っていた。 でも、そう言いたかった。

妻は少し黙って、 それでもテーブルにパンと味噌汁を置いていった。

俺は、それを黙って食べた。

旨かった。 悔しかった。


夕方、妻がソファの横に座ってきた。

「ねえ、怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘くさい」

俺は少し、笑いそうになった。 笑わなかった。

「役立たずだと思われてる気がして、嫌になった」

言おうと思っていたわけじゃない。 口から、出た。


妻は、しばらく黙っていた。

「そんなふうに思ってたの」

責めてはいなかった。 驚いていた。

「別に、役に立たなくてもいいんだけど」

その言葉が、俺にはうまく受け取れなかった。

役に立たなくてもいい。 それは、どういうことだ。

いてもいなくても同じ、ということか。 それとも、ただそこにいるだけでいい、ということか。

どちらの意味かが、わからなかった。


男には、それがわからない。

「存在しているだけでいい」という言葉が、 なぜか胸に刺さる。

刺さり方が、優しくない。

必要とされたい。 頼られたい。 俺じゃなければ、と思われたい。

それが、俺の根っこにある。 抜けない杭のように、ずっとそこにある。


「ありがとう、いてくれて」

妻が、静かに言った。

俺は返事をしなかった。

でも、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。 ほんの少しだけ。

それを、素直に受け取る方法を、 俺はまだ知らない。

知らないまま、もう四十年近く生きてきた。


夜、布団に入って天井を見た。

明日も、どこかに落とした履歴書の返事を待つ。 また、役に立とうとして、空回りするかもしれない。

でも、それでも、やめるつもりはなかった。

必要とされるまで、やり続ける。 そうするしか、俺には方法がない。

それが弱さなのか、強さなのか。 もう、どちらでもいいと思っていた。

俺はそういう男だ。 それだけのことだ。

隣で妻が寝ていた。 穏やかな寝息だった。

俺は目を閉じた。 明日また、台所に立つつもりだった。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次