小説「三年前の『ごめん』を今も抱きしめて」

妻には、出張だと言った。

嘘じゃない。 午前中は本当に、取引先を回っていた。

でも午後の新幹線に乗ったのは、 仕事のためじゃなかった。

この街に来るのは、三年ぶりだった。


改札を出ると、見覚えのある匂いがした。

街の匂いというより、空気の温度というか、 光の角度というか。

うまく言えないけれど、 体が先に、ここを知っていた。

スマホのマップは開かなかった。 足が、勝手に動いた。


彼女とは、二十七の頃に別れた。

付き合って二年。 別れの原因は、俺だった。

仕事を優先しすぎた。 連絡を怠った。 大事な記念日を、忘れた。

「もう無理」と言ったのは彼女だったけど、 そう言わせたのは、俺だった。


あの頃の俺は、忙しさを誇っていた。

仕事ができる自分、 休む暇もない自分、 そういう自分が好きだった。

彼女が何を求めているか、 わかっていなかったんじゃない。

わかっていて、後回しにしていた。 いつでも取り戻せると思っていた。

人間関係が、仕事と同じだと思っていた。 やり直しがきくと、思っていた。


川沿いの道に出た。

桜並木は、今は青々としていた。 三年前の春、ここを二人で歩いた。

彼女は花びらを一枚拾って、 「持って帰っていい?」と言った。

「枯れるだろ」と俺は言った。

「枯れてもいい」と彼女は言った。

俺はそのとき、何も言わなかった。 今も、何も言えない。


ベンチに座った。

川が流れていた。 対岸に、子どもが走っていた。

俺は今、幸せだ。 本当に、そう思っている。

妻のことが好きだ。 来年には子どもも生まれる。

あの頃よりずっと、 ちゃんとした人間になれた気がしている。

それでも、ここに来た。


なぜ来たのか、うまく説明できない。

未練、ではない。 彼女に会いたいわけじゃない。 あの頃に戻りたいわけでもない。

ただ、あの頃の俺を、 どこかに置いておきたかった。

捨てるんじゃなくて、保存する。 上書きするんじゃなくて、別のフォルダに入れておく。

あの二年間が確かにあったことを、 誰かに証明してもらいたかった。

その誰かが、この街だった。


女性は、恋愛を上書きするらしい。

前の彼氏の記憶が、次の記憶に塗り替えられていく。 それが、前に進むということだと、どこかで読んだ。

男は違う。

別名で保存する。 消さないし、開きもしない。 でも、確かにそこにある。

ハードディスクの奥に、 名前もつけずに眠っているフォルダ。

それを捨てることが、 なぜかできない。


別れ際、彼女は泣かなかった。

「ごめんね」と俺は言った。 彼女は「うん」とだけ言った。

その「うん」が、今も少し痛い。

怒鳴られた方が、楽だったかもしれない。 静かに受け取られた方が、 ずっと長く、刺さり続ける。


川を見ながら、俺は考えた。

あのとき違う選択をしていたら、 別の人生があったはずだ。

でも、その人生を生きたかったかどうかは、 わからない。

今の人生が好きだから。 今の妻が好きだから。

だとしたら、後悔じゃない。 後悔じゃないのに、忘れられない。

そういう感情に、名前はあるのか。


一時間ほど座って、立ち上がった。

川は変わらず流れていた。 空は少し、オレンジになっていた。

俺はスマホを取り出して、妻にメッセージを打った。

「仕事終わった。今夜遅くなる」

すぐに既読がついた。

「気をつけてね。お腹すいてたら何か食べて帰って」

短い返信だった。 それだけで、胸が温かくなった。


駅に向かいながら、俺は思った。

男が過去を捨てられないのは、 弱いからじゃない。

あの頃の自分を、なかったことにしたくないからだ。 情けない自分も、不器用な自分も、 全部ひっくるめて、今の自分だから。

忘れることが、前進じゃない。 抱えたまま、歩くことが、俺の進み方だ。


改札をくぐった。

ホームで新幹線を待ちながら、 俺はポケットに手を入れた。

何もなかった。 当たり前だ。

でも、花びらを一枚、拾えばよかったと、 ほんの少しだけ思った。

枯れてもいい。 持って帰るだけでいい。

三年後にやっと、彼女の言葉の意味がわかった気がした。

新幹線が、静かにホームに滑り込んできた。

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