その言葉は、口から出た瞬間に嘘になった。
「大丈夫?」
菜摘が、俺の顔を覗き込んでいた。 夕食の皿を片付ける手を止めて、まっすぐに。
「大丈夫」
俺は言った。 一秒も迷わなかった。
大丈夫じゃない。 全然、大丈夫じゃない。
今日、三年かけて準備してきたプレゼンで、数字を間違えた。 しかも、クライアントの前で。
部長がフォローしてくれた。 それが、余計にきつかった。
自分のミスを他人に拾われる屈辱。 あの瞬間の静寂が、まだ耳に残っている。
帰りの電車で、何度も資料を見返した。
どこで間違えたのか、なんとなくわかっていた。 先週、徹夜で修正した版と、古い版を混在させたのだ。
確認すればよかった。 ちゃんと眠ればよかった。
全部、俺のせいだ。 言い訳が思い浮かぶたびに、それを自分で潰した。
弱い人間が言い訳をする。 俺はそう思って生きてきた。
菜摘は、まだ俺を見ていた。
「本当に?」
優しい声だった。 だからこそ、しんどかった。
「うん、疲れてるだけ」
俺はソファに座って、テレビをつけた。 何も見ていなかった。
菜摘がお茶を持ってきた。 黙って、隣に置いてくれた。
その気遣いが、胸に刺さった。
話せばいい。 頭ではわかっている。
菜摘は、聞いてくれる人間だ。 笑ったりしない。責めたりもしない。
それでも、言葉が出なかった。
「仕事でミスした」と言った瞬間に、 俺の何かが崩れる気がした。
彼女に心配をかけること。 情けない姿を見せること。
それが、怖かった。
男にとって、「助けを求める」ということは、 単純な行為じゃない。
弱さを認めることだ。 一人でやれなかったと、白状することだ。
論理じゃない。 感情でもない。
骨の髄まで染み込んだ、何かだ。 いつ、どこで刷り込まれたのか、もう思い出せない。
「男は泣くな」と言われた記憶はない。 でも、泣いてはいけないと知っていた。
「ねえ」
菜摘が、静かに言った。
「話したくないなら、話さなくていい。でも、一人で全部抱えないで」
俺は答えなかった。 テレビの音だけが、部屋に流れていた。
菜摘は何も言わなかった。 ただ、少しだけ俺の方に体を寄せた。
それだけだった。
その夜、風呂に入りながら、俺は考えた。
一人で解決することが、本当に強さなのか。
誰にも頼らず、誰にも見せず、 全部を腹の中に押し込んで生きていくことが。
わからなかった。
ただ、今日の俺は何も解決していない。 ミスは消えない。 疲れも取れていない。
「大丈夫」と言っただけで、 何ひとつ、大丈夫になっていなかった。
風呂を出ると、菜摘はもう寝室にいた。
部屋の電気が、一つだけ暗く灯っていた。 テーブルの上のお茶は、まだそのままだった。
俺はそれを手に取って、飲んだ。 冷めていた。
ありがたかった。
布団に入って、天井を見た。
隣で菜摘が寝ていた。 寝息が、規則正しかった。
俺は小さな声で、暗闇に向かって言った。
「……しんどかった」
誰にも聞こえない声だった。 菜摘には届かなかった。
でも、言えた。 それだけで、少し、息ができた。
男というのは、たぶんこういう生き物だ。
ちゃんと言えるようになるまでに、 夜がいくつも必要な。
いつか菜摘に、ちゃんと話せる日が来るかもしれない。 来ないかもしれない。
でも今夜は、天井に向かって吐き出した一言が、 俺の「大丈夫」よりずっと正直だった。
それで、いい。 今夜は、それでいい。
