小説「言えなかった、ただそれだけ」

夜の九時。

オフィスのフロアに、もう俺しか残っていなかった。 モニターの白い光だけが、静かに部屋を照らしていた。

デスクの上には、半分も飲んでいないコーヒーのカップ。 冷めていた。いつから冷めていたのか、気づいていなかった。

退勤の準備をしていると、スマホが光った。

「今夜、もし暇なら」

三浦から、だった。


三浦咲は、同じ部署の先輩だ。 三歳上で、仕事が早くて、笑うと目が細くなる。

怒るときは静かに怒る。 誰かを傷つけるような言葉を、俺は一度も聞いたことがない。

そういう人間が、世の中にいるんだと知ったのは、三浦に会ってからだ。

俺は一秒、画面を見つめた。

暇かどうか、なんて関係なかった。 問題は、俺が何を返すか、だった。

「ちょっと残業があって」

送信ボタンを押した瞬間、何か小さなものが胸の中で折れた気がした。

嘘じゃない。 でも、本当でもなかった。


男というのは、ときどき自分でも意味のわからない嘘をつく。

傷つくのが怖いわけじゃない。 断られるのが怖いわけでもない。

ただ、「好きだ」と言った瞬間に、今の関係が終わる気がする。

先輩として笑いかけてくれる三浦が、 女として俺を見てくれるかどうか。

そこに踏み込む勇気が、俺にはなかった。

なあ、これって弱さだよな。

頭のどこかで、もう一人の自分が問いかけていた。 答えは出なかった。


二十分後、三浦から返信が来た。

「そっか。またね」

たった五文字。

俺はそれを三回読んで、スマホをポケットに押し込んだ。 荷物をまとめ、電気を消し、エレベーターに乗った。

一階につくまで、ずっと無言で床を見ていた。

「またね」。

その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

温かいのか、冷たいのか。 やさしいのか、終わりなのか。

五文字だけでは、何もわからなかった。


外は冷えていた。

駅までの道を歩きながら、俺は考えた。 もし素直に「行く」と返していたら。

居酒屋のカウンターで、肩が触れるくらいの距離で、 三浦が笑っている場面が、くっきりと浮かんだ。

ビールが旨くて、話が弾んで、 最後に「また飲もうな」じゃなくて、別の言葉が生まれる夜。

全部、ありえた話だった。

でも俺は、その扉を自分で閉めた。

閉めておいて、扉の前で立ち尽くしている。

馬鹿みたいだと思った。 でも、笑えなかった。


信号待ちをしていると、隣にカップルが来た。 女の方が、男の腕に体を預けていた。

男は何も言わず、ただ前を見ていた。 でもその立ち方が、少し誇らしそうだった。

羨ましい、と思った。

あの男が特別なわけじゃない。 たぶん、どこかで一回、正直に言えた。 それだけの違いだ。

信号が青になった。 俺は一人で歩き出した。


電車に乗り込んで、吊革を握った。

窓に自分の顔が映っていた。 情けない顔をしていた。

でも、明日もきっと同じ顔でオフィスに行って、 三浦に「おはようございます」と言うんだろう。

何もなかったように。

それでいい、と思う気持ちが半分。 それでよくない、と思う気持ちが半分。

男って、そういう生き物なんだと思う。

言葉にできないまま抱えて、 言葉にしなかったことを、夜だけ後悔する。


ふと、半年前のことを思い出した。

残業帰りに、二人で自販機の前に並んだ夜。 三浦が「最近どう?」と聞いてきた。

「まあ、ぼちぼちです」と俺は言った。

本当は、しんどかった。 プロジェクトが詰まっていて、眠れない夜が続いていた。

でも言えなかった。 弱いと思われたくなかったのか、心配させたくなかったのか。

今となっては、どっちかもわからない。

三浦は「そっか」と言って、ホットコーヒーを買った。 そのまま、何も続かなかった。

あのとき素直に言えていたら、何かが変わっていたかもしれない。


次の駅で、どっと人が乗ってきた。

車内が狭くなって、俺はドアの端に寄った。 スマホを取り出して、三浦とのトーク画面を開いた。

「またね」の下に、カーソルが点滅していた。

何か、打てばいい。 「お疲れ様です」でも、「また誘ってください」でも。

でも指が、動かなかった。

終点の駅名がアナウンスされた。 俺はスマホを閉じた。


男というのは、守るために黙ることがある。 でも俺の場合、ただ怖くて黙っているだけかもしれない。

その違いを、ちゃんと知っている。

電車が揺れた。 窓の外に、夜の街が流れていった。

次のチャンスが来たとき、俺は言えるだろうか。

わからない。 でも今夜だけは、言えなかった自分を、もう少し抱えていようと思った。

それくらいの正直さは、まだ残っていた。

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