冷たい星の下で

終電を逃した夜、駅前のロータリーには、酔っ払ったサラリーマンとタクシーの列と、コンビニの明かりだけが残っていた。

佐伯雪は、スマホの画面を見つめてため息をついた。

「徒歩40分……」

地図アプリには、職場から歩いて帰れるルートが表示されている。タクシーに乗るほどの距離じゃない。でもヒールで40分はちょっときつい。

帰るか、どこかで時間を潰すか。そう考えながら見上げた空は、冬のくせにやけに澄んでいて、星がいくつかはっきり見えた。

「雪ー?」

背後から名前を呼ばれて振り向くと、マフラーをぐるぐる巻きにした男が立っていた。

高校の同級生、東海林 漣だった。

「……なんでいるの」
「ひどいな。まず ‘久しぶり’ が先じゃない?」

彼は笑って、コンビニのビニール袋を片手で揺らした。中から、カップ麺と缶コーヒーの影が透けて見える。

「バンドのスタジオ、この近くなんだよ。さっきまで練習。雪こそ、なんでこんな時間?」

雪は肩をすくめる。

「残業。年度末直前って地獄だよ」
「おつかれさま。……家、そっちだよね?」

彼は、駅から伸びる暗い商店街の方向を顎で示した。高校の頃、何度も一緒に歩いた道だ。

「うん。歩いて帰ろうかなって」
「じゃあ送るよ。俺もこっち」

そう言って、当たり前のように隣に並ぶ。

「いいよ、別に」
「よくない。こんな時間に女の子一人で歩かせたら、同級生としての評価が地に落ちる」
「誰が評価してるのよ」
「俺」

くだらない会話をしながら、二人は歩き出した。


商店街は、ほとんどのシャッターが降りている。24時間営業のドラッグストアから漏れる白い光だけが、足元を薄く照らしていた。

「雪、今何してるんだっけ? 営業だっけ?」
「総務。書類とメールと電話に埋もれてる」
「らしいなあ。真面目にこなしてそう」
「褒めてる?」
「もちろん」

雪は少しだけ顔をしかめた。

「ねえ、覚えてる? 高校のとき、漣、 ‘会社員とか絶対ならない’ とか言ってたじゃん」
「あー、黒歴史ね。やめて」
「今も? まだ ‘絶対ならない’?」
「うん。多分、一生」

そう言いながら、漣はポケットから小さな黒いケースを取り出した。中には、擦り切れたピックが2枚入っている。

「バイトしながら、まだ音楽?」
「まだ、っていうか、やっと ‘ちょっとマシになってきた’ って感じかな。去年、配信の再生数がちょっと伸びてさ。地方だけどライブも回れるようになって」

彼の声は、昔と同じ、少しだけ眠たそうなトーンだった。だけど、そのなかに混ざる熱っぽさは、雪には懐かしかった。

「すごいじゃん」
「まあ、まだ ‘それだけで食える’ レベルじゃないけどね。雪は? 高校のとき ‘東京で働きたい’ って言ってたけど」
「叶ったよ。一応」
「叶って、その顔?」
「……どんな顔?」
「ちょっと疲れてる顔」

図星をさされて、雪は笑うしかなかった。

「そりゃあ疲れるよ。毎日同じ時間に出社して、同じような顔ぶれで会議して。同じような内容のメールに ‘お世話になっております’ って書いて。それに、終電逃して歩いてるし」
「それは今だけでしょ。年度末だから」
「そうかもね」

そう言いながら、雪は心のどこかで認めざるを得なかった。
年度末じゃなくても、彼女はいつも、何かに追われるように歩いていた。


少し歩くと、小さな公園が見えてきた。遊具は古く、ブランコの鎖が風に揺れて、かすかな金属音を立てている。

漣が立ち止まった。

「ちょっと寄ってく?」
「え、こんな時間に?」
「空、よく見えるよ。前もさ、よくここでサボってたじゃん」

確かに。テスト前に「勉強会」と称して集まり、ほとんど勉強もせずにここでくだらない話をしていた。

「……少しだけね」

二人はベンチに腰を下ろした。冬の木々はすっかり葉を落とし、裸の枝が夜空を切り取っている。

「おお、見える見える」
漣が指差した先には、街の明かりに負けながらも、いくつかの星がしっかりと瞬いていた。

「ねえ、漣」
「ん?」
「こういうの見て ‘きれいだな’ って思う余裕、最近なかったかも」

雪がぽつりと言うと、漣は「へえ」と興味深そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「余裕なかったんだ?」
「……うん。仕事が忙しくてってのもあるけど、それだけじゃなくて。 ‘ちゃんとしなきゃ’ って思いすぎて、休むことに罪悪感が出てくるというか」

雪は、自嘲気味に笑った。

「会社辞めたい?」
「それがね、自分でもよくわからないの。辞めてもいいのかもしれない。でも、やめたあと何するのって聞かれたら、答えられない」
「じゃあ、まだ辞めないほうがいいかもね」
「現実的」
「バンドマンだからって、常に夢追い人だと思うなよ」

漣は空を見上げたまま、少し真面目な声で続けた。

「俺さ、高校のときは ‘音楽で売れる’ って思い込んでた。根拠もなく。でも二十代の後半で、普通に ‘これ、ダメかもしれない’ って現実が見えてきてさ」
「うん」
「それでも、やめたくなかった。 ‘売れなかったらどうするの’ って何回も言われたけど、 ‘じゃあ俺からギター取ったら何が残るんだろう’ って考えると、なんか怖くてさ」

雪は黙って聞いていた。

「だから決めた。 ‘売れる’ は一旦置いといて、 ‘これ続けてる俺、わりと好きだな’ って状態を守るほうに、人生の軸をずらした」
「軸を、ずらした?」
「うん。 ‘最高の未来’ じゃなくて ‘最悪じゃない毎日’ を選んだって感じ」

雪は、その言葉を頭の中で転がしてみた。

最高の未来じゃなくて、最悪じゃない毎日。

「雪はさ」
漣が、少しだけ間を置いてから言った。

「今の自分、好き?」
「……いきなりだね」
「いいから。直感で答えて」
「好きじゃない、かな」

思ったよりも、すぐに言葉が出てきてしまった。
言った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。

「あ、ちゃんと言えるじゃん」
「なんか、悔しいんだけど」
「いや、偉いよ。 ‘好きじゃない’ って言葉にできるの、結構勇気いるから」

漣はそう言って、ポケットからスマホを取り出した。

「ねえ雪、これ聴く?」
「何それ」
「さっきまでスタジオで録ってたデモ。まだラフだけど」

彼はイヤホンを片耳ずつ分けて渡した。

再生ボタンが押されると、少し粗いギターの音と、漣の歌声が流れ出す。
歌詞は、どこにでもいるような人間の、どこにも行けない夜のことを歌っていた。

  逃げ道ばかり 覚えてきたけど
  本当はまだ ひとつも使ってない
  この街の端っこで 立ち止まるたび
  同じ星を 見上げてる

雪は、歌詞の一行一行が胸に刺さるのを感じながら、そっと目を閉じた。

曲が終わると、耳元が少し冷たく感じる。

「どう?」
漣が少し照れくさそうに聞いた。

「ずるいよ」
「ずるい?」
「こんな時間に、こんな場所で、こんな曲聴かせるの。真面目に人生悩んでる側の立場がなくなる」
「それはすまん」

二人は同時に笑った。


「ねえ、漣」
「ん?」
「さっきの曲の歌詞みたいにさ。 ‘逃げ道覚えてるけど、まだ使ってない’ って感覚、ちょっとわかる」

雪は、自分でも驚くくらい素直に言葉を続けた。

「別に、会社辞めるのが ‘逃げる’ ってわけじゃないんだろうけど。でも ‘ここじゃないどこか’ のこと考えるたびに、なんか悪いこと考えてるみたいな気分になるんだよね」
「うん」
「でも、本当は私、 ‘今の自分、好きじゃない’ ってちゃんと言えた時点で、ちょっと動きたいのかもしれない」

漣はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「じゃあさ」
「うん?」
「今日、いきなり仕事辞める必要はないけど、 ‘今の自分を少しだけマシにする何か’ をひとつだけ決めてみたら?」
「……例えば?」
「例えば、星見る余裕を取り戻すとか」
「それ、ロマンチストが言うやつ」
「じゃあ現実的なのにする?  ‘毎日定時で帰る’ とか」
「それは無理」

そう言いながらも、雪は少し考えた。

「……じゃあ、そうだな」

彼女は、星空から目線を落として、漣を見た。

「 ‘自分のためだけに書く場所’ を作る、とかは?」
「書く場所?」
「会社のメールでもなく、報告書でもなく、SNSでもない。私しか読まない、文章の場所。日記でも小説でも、なんでもいいけど」
「いいじゃん。絶対似合う」
「なんでわかるの」
「昔からだよ。雪、ノートの端っこに、やたらと物語っぽい落書きしてたじゃん」
「……覚えてたんだ」

雪は、少し頬が熱くなるのを感じた。

「うん。それ、ちゃんと続けたら、多分 ‘今の自分ちょっと好きかも’ って思える瞬間、増えると思う」

彼の声は、夜風よりも穏やかだった。


「……じゃあ、決めた」

雪はポケットからスマホを取り出して、メモアプリを立ち上げた。
新規メモに、タイトルを打ち込む。

「冷たい星の下で」

「それ、今の状況そのまんまじゃん」
「第一話のタイトル」
「おお、もう ‘連載’ のつもり?」
「続かなかったらタイトルだけの黒歴史になるから、がんばる」

画面に「1行目」が表示される。雪は、ゆっくりと文字を打ち始めた。

  終電を逃した夜、私は駅前のロータリーで空を見上げていた——

隣でそれを覗き込んでいた漣が、くすっと笑った。

「なんかさ」
「なに?」
「これ書き終わるころには、今の雪、もう ‘好きじゃない自分’ じゃなくなってそう」
「だったらいいけどね」

空を見上げると、さっきよりも星がはっきりしていた。目が慣れたせいかもしれないし、雲がどこかに流れていったのかもしれない。

どちらにしても、同じ星の下で、自分の人生を少しだけマシにする何かを始めても、きっと罰は当たらない。

「そろそろ帰る?」
「そうだね。明日も一応、会社あるし」
「俺も、明日スタジオ」

二人はベンチから立ち上がった。

歩き出した先には、相変わらず変わり映えのしない街の明かりが伸びている。
だけど雪には、それが少しだけ違って見えた。

今日から、この夜も、物語の一部になる。

そう思うだけで、足取りが、ほんの少し軽くなった。

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