法廷は静まり返っていた。
検察側の最後の切り札として証人台に立ったのは、七十過ぎの上品な老婦人だった。白髪を丁寧にまとめ、落ち着いた灰色のスーツに身を包んでいる。
「では、榊原さん、あなたは事件当日の午後三時ごろ、現場付近を通りかかったのですね」
検事の問いかけに、老婦人は穏やかにうなずいた。
「はい。いつものように散歩をしておりました」
「そして、被告人を目撃したと」
「はい」
老婦人は証言台から被告席の男を見つめた。男は三十代半ば、やつれた顔で視線を落としている。
「間違いありません。あの方です」
傍聴席がざわついた。これまでの公判で、被告人のアリバイは完璧とは言えないまでも、それなりに筋が通っていた。だが、この証言が決定打となれば、状況は一変する。
「具体的に、どのような状況で目撃されたのですか」
「被害者のお宅の門から出てくるところを見ました。黒いジャンパーを着て、野球帽をかぶっていました」
「距離は?」
「十メートルほどでしょうか」
「顔ははっきりと?」
「ええ。目が合いましたから」
完璧な証言だった。あまりにも完璧すぎて、弁護人は一瞬言葉を失った。
やがて反対尋問が始まった。
「榊原さん、あなたは眼鏡をかけておられますね」
「はい、老眼鏡です」
「その日もかけていましたか」
「いいえ、散歩の時は外しています。遠くを見るのに必要ありませんから」
「しかし、十メートルの距離で人の顔を識別するのは——」
「私の視力は一・二です」老婦人はきっぱりと言った。「半年前の検査でそう言われました」
弁護人は資料を繰った。
「ところで、あなたが目撃したという午後三時、その日は曇りでしたね」
「ええ、そうでしたわ」
「薄暗くはありませんでしたか」
「いいえ、十分明るゅうございました」
弁護人はしばらく黙考した。そして、意を決したように言った。
「榊原さん、率直にお聞きします。あなたは本当にその日、被告人を見たのですか」
「見ました」
「嘘偽りなく?」
「神に誓って」
老婦人の声には一点の迷いもなかった。弁護人は深くため息をついた。
判決は有罪だった。
三年後。
刑期を終えて出所した男は、偶然、喫茶店で榊原老婦人と出くわした。
「あなたは——」
老婦人は穏やかに微笑んだ。
「覚えていてくださったのね」
「どうして、あんな証言を」男は声を震わせた。「私は本当にやっていないんです」
「知っていますわ」
「え?」
「あなたは犯人じゃない。でも、あの日確かに被害者の家から出てきたのは事実でしょう?」
男は凍りついた。
「なぜ、それを」
「娘から聞いていたんです。被害者は私の娘でした。あなたと娘が不倫関係にあったこと、娘があなたに別れを告げようとしていたこと」
老婦人は静かに続けた。
「娘を殺したのはあなたじゃない。でも、あなたがいなければ娘は死ななかった。口論の末、娘は階段から落ちたんでしょう? あなたは怖くなって逃げた。そして本当の犯人——あの粗暴な夫が帰宅して、倒れている娘を見つけた」
「それなら、なぜ夫を告発しなかったんです」
「証拠がありませんもの」老婦人は悲しげに笑った。「でも、あなたには『目撃証言』という証拠があった。あなたが被害者の家にいたという、完璧な証拠が」
男は言葉を失った。
「私の証言は完璧でしたわ。なぜだかわかる? 全部真実だったからです。あなたが現場にいたこと、黒いジャンパーを着ていたこと、すべて娘から聞いていた通りでした」
「でも、直接見てはいない」
「ええ。でも私は嘘は言っていません。『見た』と言っただけ。いつ見たかは言わなかった」
老婦人は立ち上がった。
「娘の仇は討てませんでした。でも、娘を死に追いやった共犯者には、それなりの罰を受けていただきました」
去り際、老婦人は振り返った。
「完璧な証言には、完璧な真実が必要なのよ。ただし、全部を語る必要はないの」
男は呆然と、老婦人の後ろ姿を見送った。喫茶店の窓の外では、秋の雨が降り始めていた。
