完璧な一日

田中は毎朝七時に目覚まし時計で起きる。歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べて、八時十五分に家を出る。電車は八時二十三分発に乗り、九時ちょうどに会社に着く。

この生活を十年間続けていた。

ある朝、いつものように目覚まし時計が鳴った。田中は起き上がろうとしたが、体が動かない。いや、正確には動く必要を感じないのだ。

「おかしいな」と思いながらも、なぜか焦りは感じなかった。

時計を見ると、まだ七時だった。五分後に見ても七時。十分後に見ても七時のままだった。

不思議に思って窓の外を見ると、通りを歩く人々が皆、同じ歩調で歩いている。信号は青のまま変わらない。空に浮かぶ雲も、全く同じ形で止まっていた。

田中はベッドから起き上がり、テレビをつけた。ニュースキャスターが口を開いた瞬間で画面が止まっている。ラジオからも音が出ない。

「時が止まったのか?」

田中は家を出てみた。道路には車が止まり、横断歩道では人々が足を上げたまま静止している。まるで巨大なジオラマの中にいるようだった。

しかし、田中だけは自由に動けた。

最初は戸惑ったが、やがて田中はこの状況を楽しみ始めた。会社に行く必要もない。誰にも気を遣う必要もない。完璧に自由な時間が手に入ったのだ。

公園のベンチに座り、止まった世界を眺めながら田中は思った。

「これこそ理想の生活かもしれない」

三日が過ぎた。いや、時が止まっているので正確には三日ではないが、田中の体感では三日だった。

最初の喜びは薄れ、寂しさが込み上げてきた。誰とも話せない。誰とも触れ合えない。コンビニの商品を取っても、店員は動かない。

一週間後、田中は気づいた。

自分が求めていたのは自由ではなく、規則正しい日常だったのだ。毎朝の目覚まし時計も、満員電車も、上司の小言も、すべてが愛おしく思えた。

「元に戻ってくれ」田中は空に向かって叫んだ。

その瞬間、目覚まし時計が鳴った。

田中は飛び起きた。時計を見ると七時ちょうど。窓の外では人々が普通に歩き、車が走っている。

「夢だったのか」

安堵しながら、田中はいつものように歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べた。そして八時十五分に家を出て、八時二十三分発の電車に乗った。

しかし、電車の中でふと気づく。

乗客が皆、全く同じ表情をしている。全く同じ姿勢で、全く同じリズムで呼吸している。

田中は慌てて腕時計を見た。

針が、微動だにしなかった。

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