「……今年も、冷やし担々麺はじめました、か」
会社の帰り道、駅の階段を降りてすぐの角。
見慣れた赤提灯の中華屋『翠園』のガラス戸に、白い紙で貼られたその文字を見つけて、島田は思わず足を止めた。
店の中からは、チリン、と風鈴の音。
ガラス越しに見える店主の後ろ姿。
相変わらず、背中がやけに丸い。
「いらっしゃい」
引き戸を開けると、カウンター越しに店主が軽く手を上げた。
「久しぶりだねぇ、島田さん。……もう、夏だよ」
「ええ、もうそんな季節ですね」
そう言いながら席に腰を下ろすと、椅子のギシリという音が、妙に耳に残った。
店は静かだった。先客はなく、冷房の風がゆるやかに首を振っている。
「冷やし担々麺、ありますか?」
「お、早いね。毎年、あれを食べると夏が来たって感じなんだっけ」
「そうです。今年もそれでお願いします」
店主がにやりと笑い、厨房へ引っ込んだ。
ガスの音と、湯をくぐらせる鍋の音、タレを混ぜる軽やかな音。
それらが調和して、まるで一つの夏のBGMのようだった。
店主のつくる冷やし担々麺は、絶品だ。
もっちりとしながらもコシのある細麺に、香ばしい胡麻だれと自家製ラー油。
トッピングの白髪ねぎと砕いたカシューナッツが、食感と風味に変化を与える。
けれど、島田にとって、この一杯は単なる“うまい麺”以上のものだった。
五年前の夏、彼女と別れた日も、ここでそれを食べていた。
仕事帰り、ふたりで落ち合って、「たまにはこういうのもいいね」なんて言いながらカウンターに座った。
彼女はいつも通り麻婆豆腐定食を頼み、島田は冷やし担々麺を。
食べ終わった後、彼女がいきなり言ったのだ。
「私たち、そろそろ終わりにしない?」
あまりに突然で、唐突で、味の余韻すら口に残っていたから、島田は返す言葉もなく、ただ「そうか」とうなずいた。
それきりだった。
彼女とは連絡を取らずじまい。
そのまま、時間だけが流れていった。
――でもなぜか、毎年、この冷やし担々麺だけは食べに来てしまう。
まるで彼女との記憶をなぞる儀式のように。
「お待ちどうさま」
カウンターにそっと置かれた冷やし担々麺。
淡い器の上で、赤と白と緑が静かに輝いていた。
「……変わらないなあ、見た目も味も」
「変えてないよ。あの人が好きだった味だからね」
「あの人?」
「君の隣に、よく座ってた人さ。……ほら、あの日のこと、覚えてるよ」
島田は箸を止めた。
「……覚えてるんですか」
「忘れないよ。静かに泣いててさ。なのに、君はずっと麺をすすってた」
「……食べてるしか、できなかったんです」
「そっか」
店主はそれ以上何も言わず、また厨房に戻った。
厨房の奥からは、テレビの野球中継の音がかすかに聞こえてきた。
島田は、箸を取り直す。
ひと口。胡麻のまろやかさが舌に広がり、遅れてピリリと山椒の刺激。
その奥に、ふっと漂う香味油のほのかな苦味。
何も変わっていない――そう思いながら、でもどこかで「少し違う」と感じた。
味なのか、自分の心なのか。
ふと、カランと鈴の音がして、誰かが入ってきた。
「すみません……冷やし担々麺、まだありますか?」
その声に、島田の背筋が固まった。
まさか――と思って振り返る。
そこに立っていたのは、確かに彼女だった。
白いシャツに、紺のスカート。
長い髪を後ろでひとつに束ねて、少し疲れた顔をしていたが、目元と声の感じは、あの頃のままだった。
「あっ……」
彼女も島田に気づき、思わず口元を覆った。
沈黙が流れた。けれど、それは不思議と重くはなかった。
「……久しぶり」
「……うん、久しぶり」
カウンターに一つだけ空いていた席に、彼女がそっと座る。
店主が、黙って頷いて、厨房に戻った。
「……この店、まだあるかなって、たまに思ってたの」
「俺も、毎年来てるよ。この担々麺、忘れられなくて」
「やっぱり、好きだったんだね」
「うん……この味が、一番落ち着く」
彼女は微笑んだ。
「私も、そうだったかも。……あの時は、ひどいことをしたと思ってた。でも、あの夏、わたしの中でいろんなものが変わり始めてて、どうしても言葉にできなくて」
「俺も、何も言えなかった。……ただ、麺を食べてるしかなかった」
ふたりは笑った。
少しだけ、同じ季節を共有していた懐かしさが、言葉の隙間にあふれていた。
店主が、彼女の前に冷やし担々麺を置いた。
「変わってない……」
彼女がつぶやいた。
「でも、きっと少しは変わってるさ」
店主がそう言って、そっと背中を向けた。
ふたりは、それぞれの器に箸を伸ばし、静かに麺をすすった。
風鈴がチリンと鳴った。
店の奥から、甲子園の歓声が聞こえた。
冷たい担々麺が、なぜか胸の奥を、そっとあたためていた。