夕暮れの光が、アスファルトの道に細長い影を落とす。アキラは重たいランドセルを背負い、いつものようにその古ぼけた自動販売機の前で立ち止まった。
錆びついた緑色のボディに、ひび割れたガラスが嵌め込まれている。普通の飲み物はなく、透明なガラスの向こうには、奇妙な缶詰が並んでいた。
アキラが初めてこの自販機を見つけたのは、今から半年前のことだ。路地裏にひっそりと佇むその存在に、彼は吸い寄せられるように近づいた。百円玉を一枚入れ、一番手前の赤い缶のボタンを押してみた。
ガチャン、という鈍い音がして、手のひらサイズの小さな缶詰が出てきた。蓋を開けると、温かい光がこぼれ、あたりをほんのり橙色に染めた。それは、夕焼けの色だった。
「夕焼け缶詰…」彼はつぶやいた。
缶の中には、その日の放課後、校庭で友達とサッカーをしたときの「時間」が封じ込められていた。ドリブルで転んだときの悔しさ、ゴールを決めたときの歓声が、光に触れるたび鮮明に蘇ってきた。
それからというもの、アキラは毎日、この自販機に通うようになった。彼の小遣いは、ほとんどこの自販機に消えていった。
ある日の黄色い缶からは、真夏の夜、家族と花火をしたときの「笑い声」が飛び出した。またある日の青い缶からは、図書館の窓から差し込む「午後の眠気」がじんわりと心を満たした。缶詰の中身はいつも違っていて、アキラはそれを一つずつ大切に味わった。
缶詰を集めるにつれ、アキラに変化が訪れた。些細なことにも感動し、友人や家族との時間を以前よりも大切にするようになった。
ある日、彼は自販機の前で、どの缶詰を買おうか迷っていた。その日、親友と些細なことで口論になったのだ。
すると、奥の方に、煤けた銀色の缶詰が目に入った。百円玉を入れ、そのボタンを押す。出てきた缶詰を開けると、光ではなく、黒い煙が立ち上った。
煙は彼の顔の前でゆらゆらと揺れ、その日の口論の様子がぼんやりと浮かび上がった。親友の悲しそうな顔、そして、自分が吐いた心ない言葉。それは、アキラが目を背けたかった「後悔」だった。
アキラは初めて、この自動販売機が、苦い記憶も閉じ込めていることを知った。彼はその缶詰を、大切に持ち帰ることができなかった。
捨ててしまいたかったが、不思議とそうすることはできなかった。彼は缶詰を握りしめたまま、家に帰った。
それ以来、アキラは、後悔や悲しみ、恥ずかしさといった、様々な感情の缶詰を手に入れた。あるときはテストで失敗したときの「焦燥感」。またあるときは、大事な試合で負けたときの「悔しさ」だった。
彼はそれらを、最初は嫌々ながらも、一つずつ開けていった。すると、奇妙なことが起こった。後悔の缶を開けるたび、彼は自分の行動を客観的に見つめ直すことができた。
悲しみの缶を開けるたび、その悲しみに向き合い、涙を流すことができた。いつしか、後悔や悲しみは、彼を成長させるための「経験」へと変わっていった。
ある日の夕方、アキラはいつものように百円玉を握りしめていた。しかし、どの缶を買うべきか決められなかった。すると、缶詰の隙間に、一枚のメモが挟まっているのが見えた。
「今日の一番の思い出は、あなたの心の中にあるはずです。それを、大切にしてください」
メモを読み終えた瞬間、彼はハッとした。缶詰を頼らずとも、今日の学校生活を思い出すことができたのだ。数学の問題が解けて嬉しかったこと、給食のパンがおいしかったこと、そして、昨日仲直りした親友とまた一緒に笑い合えたこと。
それらの記憶は、彼の心の中で鮮やかに輝いていた。アキラは、握っていた百円玉をポケットにしまい、家へと歩き出した。
その日の夜、彼は今まで集めた缶詰を、一つひとつ手に取った。そこには、楽しかった思い出も、苦い思い出も、すべてが詰まっていた。彼は、それらすべてが今の自分を形作っていることを知った。
それから数日後、アキラは再び自販機の前を通りかかった。すると、百円玉を入れても何も出てこなくなった。
何度試しても、投入口は百円玉を吐き出すだけだった。彼はがっかりして、その場にしゃがみ込んだ。
そのとき、自販機からカタカタと音がして、一番下の取り出し口に小さなメモが落ちてきた。
「思い出を十分に持っているあなたには、もう必要ありません」
アキラはメモを手に立ち上がり、空を見上げた。そこには、今日も美しい夕焼けが広がっていた。
彼の心の中には、もうたくさんの「きらめく時間」が満ちていた。自販機は、彼が自分の中に宝物を見つけるための、ほんのきっかけだったのかもしれない。
彼はもう、自販機に頼る必要はなかった。彼が歩き去った後、自販機は再び静寂に包まれた。そして、そのガラスの向こうには、誰もが買いたくなるような、色とりどりの缶詰が、今日もひっそりと並んでいる。
いつか、また新しい誰かが、この自販機に百円玉を入れるのを、待ちながら。
