夏の暑さが肌に突き刺さる八月の午後、私は久しぶりに故郷の商店街を歩いていた。十年ぶりに帰省した街は、記憶の中よりもずっと小さく、そして寂しく見えた。シャッターが下りた店が目立つ中、一軒だけ懐かしい暖簾が風に揺れているのが見えた。
「味楽」。
高校時代によく通った中華料理店だった。店主の田中さんは今でも元気だろうか。ふと立ち寄ってみようという気持ちになり、重い扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声が響いた。カウンターの奥から現れたのは、髪に白いものが増えたものの、相変わらず人懐っこい笑顔の田中さんだった。
「あら、もしかして…」田中さんは目を細めて私を見つめた。「高校の時によく来てくれた…」
「覚えていてくださったんですね」私は嬉しくなって頭を下げた。「久しぶりです」
「そうそう、確かあなたは担々麺が好きだったわよね。毎回注文してくれて」
その通りだった。当時の私は辛いものが大好きで、特に田中さんの作る担々麺の虜になっていた。ピリッとした辛さと深いコクのあるスープ、そして手打ちの中太麺の絶妙な組み合わせは、今でも舌が覚えている。
「今日は暑いから、冷やし担々麺はいかが?」田中さんが提案してくれた。「最近始めたメニューなの。夏限定よ」
冷やし担々麺。聞いたことはあったが、食べたことはなかった。興味深そうに頷くと、田中さんは嬉しそうに厨房へ向かった。
店内は相変わらず昭和の香りが漂っていた。古いテレビからは高校野球の中継が流れ、扇風機がゆっくりと首を振っている。私は一人でカウンターに座り、十年前の自分を思い出していた。
あの頃の私は、将来への不安と期待で胸がいっぱいだった。大学受験を控え、毎日のように塾と学校を往復していた。疲れた夜には、よくこの店に立ち寄った。田中さんの温かい担々麺を食べながら、ぼんやりと将来のことを考えていたものだ。
「お待たせしました」
田中さんが運んできた丼を見て、私は息を呑んだ。氷の浮いた透明なスープの中に、美しく盛り付けられた麺と具材が見えた。白いスープの表面には、ごまの香りが立つ濃厚なたれが渦を描いている。青ねぎの緑、もやしの白、そして鮮やかな赤の辣油が色とりどりに散らされている。
「見た目だけでも涼しげでしょう?」田中さんが誇らしげに言った。「味の方も負けてないわよ」
一口すすってみると、予想以上の美味しさに驚いた。冷たいスープなのに、担々麺特有の深いコクがしっかりと感じられる。ごまの風味と適度な辛さが口の中に広がり、暑さで疲れた体に染み込んでいく。麺は冷水でしっかりと締められており、噛むほどに小麦の香りが鼻に抜けた。
「美味しい」私は思わず声に出していた。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」田中さんが満足そうに微笑んだ。「実は、このレシピを完成させるのに一年かかったの。普通の担々麺とは作り方が全然違うのよ」
田中さんは、冷やし担々麺の苦労話を聞かせてくれた。スープが冷えても分離しないよう、ごまペーストと調味料の配合を何度も調整したこと。麺も冷たい状態で一番美味しくなるよう、茹で時間や締め方を研究したこと。地元の野菜を使って、見た目にも涼しげな盛り付けを考案したこと。
「でも、一番大変だったのは味見よ」田中さんが笑った。「夏場に毎日担々麺を食べ続けるのは、さすがにきつかったわ」
その話を聞きながら、私は胸が熱くなった。十年という歳月の間に、田中さんは新しいことに挑戦し続けていたのだ。私が東京で仕事に追われている間も、この小さな店で創意工夫を重ねていた。
「田中さん、私、今度の転勤で故郷に戻ってくることになったんです」私は思い切って話した。「また、時々お邪魔させてもらえますか?」
「あら、それは嬉しいわ!」田中さんの顔が輝いた。「今度は冬の担々麺も食べてもらいましょう。新しいメニューも考えているの」
丼を空にした私は、改めて店内を見回した。変わらない温かい雰囲気、そして変わり続ける田中さんの挑戦心。この店には、時の流れと変わらない大切なものが同居していた。
会計を済ませて店を出る時、田中さんが声をかけてくれた。
「また来てね。今度は友達も連れてきて」
「はい、必ず」
商店街を歩きながら、私は心地よい満腹感と共に、何か大切なものを取り戻したような気持ちになっていた。冷やし担々麺の爽やかな辛さが口の中に残り、それは故郷への愛情と重なって、胸の奥で静かに温かくなっていた。
新しい季節への一歩を、私はこの懐かしい味と共に踏み出そうと思った。