駅のホームに立つ山田一郎の影が、街灯の下で異様に長く伸びていた。23時58分。いつものように残業で遅くなり、妻の冷たい視線を思い浮かべながらスマホの画面を眺めている。
画面には未読メッセージが一件。妻からだった。「もう待たない。勝手にしなさい」。
山田は溜め息をついてポケットにスマホをしまった。42歳の疲れた会社員には、もうこんな日常が当たり前になっていた。家に帰れば冷めた夕食と、話しかけても返事をしない妻が待っている。
遠くから電車の音が聞こえてくる。いつもより静かで、どこか重々しい響きだった。
ホームには他に誰もいない。終電間際のこの時間、普段なら酔っ払ったサラリーマンが数人はいるはずなのに、今夜は山田一人だった。冷たい風が頬を撫でていく。
電車がホームに滑り込んできた。車体は古く、窓ガラスが薄汚れている。扉が開くと、中からひんやりとした空気が流れ出た。まるで地下室から漂ってくる湿った冷気のようだった。
車内はガラガラだった。山田はいつものように窓際の席に座り、疲れた体を座席に預けた。電車が動き出すと、かすかな振動が心地よく、まぶたが重くなる。
目を閉じかけた時、奇妙なことに気づいた。車内アナウンスが聞こえない。いつもなら「次は○○駅」という声が流れるはずなのに、車内は静寂に包まれている。
山田は目を開けた。車内の蛍光灯がチカチカと明滅している。その光に照らされる車内は、さっきより薄暗くなっていた。
時計を見ると、針は23時59分を指したまま動かない。デジタル時計も同じ時刻で止まっている。
「故障かな」と呟きながら、山田は席を立った。車掌に声をかけようと隣の車両に向かったが、連結部のドアが開かない。何度ハンドルを回しても、びくともしない。
振り返ると、さっきまで自分がいた車両の座席が一列減っている気がした。いや、確実に減っている。車両全体が短くなっているのだ。
心臓が早鐘のように打ち始めた。汗が額に浮かぶ。
窓の外を見ると、いつもの見慣れた景色はない。街灯も、家の明かりも、何もない。ただの黒い闇が広がるばかりだった。まるで電車が宇宙の真空を走っているかのようだった。
「どこへ行くんだ」山田は震え声で呟いた。
その時、背後から低い声が聞こえた。「次はお前が降りる駅だ」。
山田は振り返ったが、車内には誰もいない。自分以外、乗客は一人もいないはずだった。
声はまた響いた。今度ははっきりと。「終点まで、もう少しだ」。
声の主は見えないが、確実にそこにいる。山田の背中に冷たい視線を感じた。
窓の外に、ぼんやりと光る駅名標が見えた。近づくにつれて文字がはっきりしてくる。「終点」とだけ書かれている。下には小さく「片道切符専用」と追記されていた。
電車が徐々に速度を落とす。ブレーキの音が異様に高く響く。まるで金属が悲鳴を上げているようだった。
ホームに滑り込むと、扉が開いた。外からは白い霧が車内に流れ込んできる。霧は生き物のように蠢き、山田の足首に絡みついた。
「降りろ」という声が聞こえる。今度は複数の声だった。男の声、女の声、老人の声、子供の声。全てが同じタイミングで「降りろ」と繰り返している。
山田の足が勝手に動く。意思に反して、体がホームへと向かっていく。必死に抵抗しようとしたが、見えない力に引っ張られるように外に出てしまった。
ホームは真っ白な霧に包まれていた。足元は見えず、まるで雲の上を歩いているような感覚だった。遠くから笑い声が聞こえる。
「また遅いよ、一郎」
妻の声だった。でも、いつもの冷たい声ではない。どこか悲しげで、諦めたような響きがある。
「今度こそ、もう遅刻は許されないよ」
山田は妻の名前を呼ぼうとした。しかし、声帯が動かない。言葉が喉の奥で凍りついている。霧がどんどん濃くなり、視界が真っ白になっていく。
「さよなら」という妻の声を最後に、すべてが消えた。
翌朝、オフィスでは山田の机が空っぽになっていた。パソコンも私物も、何もかもが消えている。
同僚の田中が首をかしげながら言った。「山田さん、昨日で退職したって総務から連絡があったけど、挨拶もなしに消えるなんて変だよな」。
「そうですね。でも最近、様子がおかしかったから」と別の同僚が答えた。
誰も知らない。その終電が、乗客を別の世界へ運ぶことを。そして、一度終点に着いたら、二度と戻ってこられないことを。
駅の時刻表には、23時59分発の電車は存在しない。でも今夜も、どこかで疲れた会社員が、その幻の終電を待っている。