祖母が亡くなってから、もう三年が経とうとしていた。
私は毎週末、祖母の家の庭を訪れては草むしりをしている。誰も住まなくなった家は急速に荒れていくものだが、祖母が大切にしていた庭だけは守りたかった。特に、祖母が「幸せの小径」と呼んでいたクローバーの群生地は。
五月の午後、いつものように庭仕事をしていると、隣の家に引っ越してきたばかりの少女が柵越しに声をかけてきた。「おじさん、何してるの?」小学校三年生くらいだろうか。好奇心いっぱいの瞳で私を見つめている。
「草むしりだよ。でも、このクローバーだけは残してるんだ」
少女は柵から乗り出すようにして、緑の絨毯を覗き込んだ。「わあ、きれい。四つ葉のクローバー、探してもいい?」
私は少し考えてから頷いた。「いいよ。見つけたら教えてね」
それから毎週末、少女は必ず庭にやってきた。名前はアヤカといった。最初は私に遠慮がちだったが、次第に打ち解けて、学校のこと、友達のこと、家族のことを話すようになった。
アヤカの家は複雑な事情を抱えているようだった。両親は離婚調停中で、アヤカは母親と二人暮らし。母親は仕事で忙しく、アヤカは一人で過ごす時間が多いらしい。
「四つ葉のクローバーを見つけたら、お母さんが笑ってくれるかな」
ある日、アヤカがぽつりと呟いた。私は返す言葉が見つからず、黙って彼女の頭を撫でた。
それから一ヶ月が過ぎた。
アヤカは毎週、熱心にクローバーを探し続けたが、四つ葉は見つからなかった。私も手伝って探したが、不思議なことに一本も見つからない。祖母が生きていた頃は、この庭には四つ葉のクローバーがたくさんあったはずなのに。
「やっぱり、私には幸せなんて来ないんだ」
六月のある雨上がりの日、アヤカは涙を浮かべてそう言った。
私はアヤカを家の中に招き入れ、温かいココアを淹れた。そして、祖母が遺した古いアルバムを取り出した。
「実はね、おばあちゃんが教えてくれたことがあるんだ」
アルバムを開くと、そこには若い頃の祖母の写真があった。祖父と並んで笑っている写真、幼い私を抱いている写真、そして庭でクローバーを摘んでいる写真。
「おばあちゃんはね、戦争で多くのものを失った人だったんだ。家も、家族も、友達も。でも、戦後この土地に移り住んで、必死に生きた。このクローバーの庭も、何もない荒れ地から作り上げたんだよ」
私は祖母が最後に私に語った言葉を思い出していた。
「おばあちゃんが言っていたんだ。『四つ葉のクローバーは幸運の印じゃない。幸せを探し続ける人の心が、四つ葉を見つけられるようにしてくれるんだよ』ってね」
アヤカは不思議そうな顔をした。
「四つ葉を探すことが大事なんじゃない。毎日この庭に来て、緑の中で過ごす時間、その穏やかな気持ち、それ自体が幸せなんだって。おばあちゃんは四つ葉を見つけることよりも、探す過程で感じる心の平穏を大切にしていたんだ」
アヤカは黙って窓の外を見つめていた。雨上がりの庭は、夕日に照らされてキラキラと輝いていた。
「でも、やっぱり見つけたいな。お母さんに見せたいもん」
その言葉に、私は微笑んだ。「じゃあ、来週も一緒に探そう」
それから二週間後、運命的な瞬間が訪れた。
いつものように二人でクローバーの中を探していると、アヤカが突然「あった!」と叫んだ。その声に隣の家から彼女の母親が飛び出してきた。仕事の休みだったらしい。
アヤカの手には、確かに四つ葉のクローバーがあった。それも、葉の中心に美しい紫色の模様が入った、とても珍しいものだった。
「お母さん、見て!ついに見つけたよ!」
アヤカは満面の笑みで母親に駆け寄った。母親は娘を抱きしめ、四つ葉のクローバーを大切そうに受け取った。そして、二人は涙を流しながら笑っていた。
「ありがとうございます。娘がいつもお世話になって」
母親は私に深々と頭を下げた。「離婚のことでバタバタしていて、娘に寂しい思いをさせてしまって。でも、ここに来るようになってから、娘の笑顔が増えたんです」
私は首を横に振った。「こちらこそ。アヤカちゃんのおかげで、この庭に命が戻ってきました」
それは本当のことだった。アヤカが来るようになってから、私は庭の手入れにより一層心を込めるようになった。祖母との思い出と向き合い、悲しみを乗り越えることができた。
夕暮れ時、三人でクローバーの庭を眺めながら、私は思った。
四つ葉のクローバーは、確かに幸運を運んできた。でも、その幸運は見つけた瞬間に訪れたのではない。アヤカが毎週この庭に来て、一緒に探し続けた時間。その積み重ねが、私たちに本当の幸せを教えてくれたのだ。
祖母が言っていた通りだった。幸せは探すものではなく、気づくものなのだと。
その夜、私はアルバムの最後のページに、今日撮った写真を貼り付けた。アヤカと母親が笑顔で四つ葉のクローバーを持っている写真。そして、その横に小さくメモを書き添えた。
「おばあちゃん、見守ってくれてありがとう」
窓の外では、月明かりに照らされたクローバーの庭が、静かに風に揺れていた。きっと明日も、明後日も、私たちは幸せを探し続けるだろう。それが人生というものだから。
そして、いつかまた誰かが、この庭で四つ葉のクローバーを見つける日が来る。その時、その人もきっと気づくはずだ。幸せはずっとそこにあったのだと。
