母が私の名前を忘れた日のことを、私は一生忘れないだろう。
「どちらさまですか?」施設のロビーで母はそう言った。73歳の誕生日から三ヶ月後のことだった。私は「娘の美穂です」と答えたが、母は首をかしげるばかりだった。
認知症の診断を受けたのは一年前。最初は物忘れから始まった。鍵をどこに置いたか分からない、約束の時間を間違える、そんな些細なことだった。
「年のせいよ」と母は笑っていた。私もそう思いたかった。
しかし症状は確実に進行していた。料理中にガスの火を消し忘れる、同じ話を何度も繰り返す、近所で道に迷う。一人暮らしを続けるのは危険だと判断し、施設への入居を決めた。
母は最初、激しく抵抗した。「まだ大丈夫よ。ちゃんとできるから」と涙を流しながら訴えた。その時の母の表情が、今でも胸に突き刺さる。
施設での生活が始まって半年。面会に行くたびに、母は少しずつ私から遠ざかっていった。最初は私の顔は覚えていたが、名前が出てこなくなった。
そして今日、ついに私が誰なのか分からなくなってしまった。
「お母さん、私は美穂よ。あなたの娘」と何度も説明したが、母は困惑した表情を浮かべるだけだった。四十年間積み重ねてきた母娘の記憶が、まるで消しゴムで消されるように失われていく。
帰り道、車の中で泣いた。母を失うということが、こんなにも痛いものだとは思わなかった。生きているのに、もう母は私の母ではないような気がした。
翌週、また施設を訪れた。もう期待はしていなかった。母が私を覚えているはずがない。
ところが、母は私を見て微笑んだ。「あら、また来てくれたのね」と言った。
私は驚いた。「私が誰だか分かる?」と聞くと、母は首を振った。「分からないけど、とても大切な人だということは分かるの」。
その言葉に、私は救われた。名前や関係性は忘れても、愛情だけは残っているのだと分かった。
それから私は毎週、母に会いに行った。母は毎回、私が初めて会う人だと思っている。でも必ず笑顔で迎えてくれる。「今日はいい天気ね」「お花がきれいね」と他愛もない話をする。
ある日、母が突然こう言った。「私、大切なことを忘れちゃったのよね。でも、忘れたことで楽になったこともあるの」。
私は耳を疑った。母に認知症の自覚があるとは思わなかった。
「どんなこと?」と聞くと、母は窓の外を見ながら答えた。「お父さんが亡くなった悲しみとか、あなたに迷惑をかけてる申し訳なさとか。そういう重い気持ちを忘れられたの」。
父は五年前に癌で他界した。母はその後ずっと、一人で頑張ってきた。私たち子どもに心配をかけまいと、辛さを隠して生きてきたのだ。
「忘れることも、時には神様からの贈り物なのかもしれないわね」と母は続けた。
その瞬間、私の中で何かが変わった。母が記憶を失うことを嘆くのではなく、今この瞬間の母を大切にしようと思った。
それから三年が経つ。母の症状はさらに進行し、今では言葉も少なくなった。でも私が手を握ると、必ず握り返してくれる。
昨日、母が小さな声で言った。「ありがとう」。
何に対するお礼なのか分からない。でもその一言に、母の人生への感謝が込められているような気がした。
私は母から多くのことを学んだ。記憶よりも大切なものがあること。愛情は言葉や記憶を超えて存在すること。そして、忘れることも時には救いになるということ。
母はゆっくりと私の元を去ろうとしている。でも母が教えてくれた愛の形は、私の心に永遠に残り続けるだろう。
認知症は確かに残酷な病気だ。しかし母との関係を通して、私は人間の尊厳と愛の本質について深く考えるようになった。
今日も私は母に会いに行く。母が私を覚えていなくても、私が母を愛していることに変わりはない。それだけで十分だと、今なら思える。
母の笑顔が、私にとって何よりの宝物だから。