雨の日の珈琲

その日、街は朝から灰色の雲に覆われていた。東京の小さな路地裏にある喫茶店「琥珀」は、いつもより静かだった。

ガラス窓には雨粒が流れ、店内の暖かい照明が外の冷たさと対比を描いていた。店主の佐藤さんは、カウンターの奥で豆を挽きながら、いつものようにラジオを流していた。低い声のアナウンサーが、台風の接近を告げている。

私はこの喫茶店の常連だった。週に二、三度はここで時間を過ごし、ノートパソコンを開いて仕事のメールを処理したり、本を読んだりする。だが、今日は仕事の気分ではなかった。

昨日、会社で上司に提出した企画書が「現実的じゃない」と一蹴され、心が重かった。30歳を過ぎても、自分のやりたいことが見つからない。そんな焦りが、雨の湿気と一緒に身体にまとわりついていた。

カウンターの端に座る私に、佐藤さんが気づいた。「いつものブレンドでいい?」と、穏やかな声で聞いてくる。私は頷き、ついでに「何か甘いもの、ある?」と尋ねた。

佐藤さんは少し考えてから、「今日、試作で作ったチーズケーキがあるけど、出す?」と言った。試作でも、佐藤さんの作るものはいつも美味しい。私は即座に「お願いします」と答えた。

店内には私以外に客が二人いた。一人は窓際で本を読んでいる若い女性、もう一人は店の奥で新聞を広げる初老の男性だ。どちらも常連らしい雰囲気で、時折佐藤さんと短い会話を交わしていた。雨の音とラジオの声が、店内の静寂を優しく埋めていた。

チーズケーキが運ばれてきた。しっとりとした食感と、ほのかに香るレモンの風味が、疲れた心を少しだけ解きほぐしてくれた。「これ、試作とは思えないね」と私が言うと、佐藤さんは照れ臭そうに笑った。「実は、昨日のお客さんからの話がヒントなんだよ」と彼は言った。

佐藤さんの話はこうだった。

昨日、店にやってきた一人の女性客が、故郷で食べたチーズケーキの味を懐かしそうに話していたという。彼女は地方から上京してきたばかりで、慣れない都会の生活に疲れていた。

佐藤さんはその話を聞いて、彼女の記憶の中の味を再現しようと、夜遅くまで厨房で試行錯誤したのだ。結局、彼女がまた店に来る前に完成してしまったから、試食は私に回ってきたらしい。

「その人、今日来るかな?」と私が聞くと、佐藤さんは肩をすくめた。「さあな。でも、誰かのために何かを作るって、悪くないだろ?」その言葉に、私は少しハッとした。自分の企画書が否定されたことばかり考えていたが、誰かのために何かを生み出すことの意味を、すっかり忘れていた。

その時、店のドアが開き、風と一緒に若い女性が入ってきた。

傘を畳む彼女の手は震えていて、ずぶ濡れのコートから水滴が床に落ちていた。佐藤さんが「いらっしゃい」と声をかけ、彼女は少し驚いたように顔を上げた。「昨日、チーズケーキの話してくれた方ですよね?」と佐藤さんが言うと、彼女は恥ずかしそうに頷いた。

「実はさ、昨日話してくれた味をイメージして、作ってみたんだ。食べてみる?」佐藤さんの言葉に、彼女の目が少し潤んだように見えた。彼女は小さく「ありがとう」と呟き、カウンターに座った。佐藤さんがチーズケーキを切り分け、彼女の前に置くと、店内に柔らかな空気が流れた。彼女が一口食べ、目を閉じてゆっくり味わう姿を見て、私はなぜか胸が熱くなった。

彼女は食べ終わると、佐藤さんに言った。「これ、ほんとに…実家の近くの店の味に似てる。懐かしいです。」彼女の声は少し震えていた。

佐藤さんはただ笑って、「よかった」とだけ言った。その瞬間、私は自分の悩みが少し小さく感じられた。誰かのために何かを作ること、誰かの記憶に寄り添うこと。それは、どんなに小さなことでも、意味があるのだ。

雨はまだ止まなかったが、店内の空気はどこか温かかった。私はノートパソコンを閉じ、コーヒーをもう一口飲んだ。企画書のこと、仕事のこと、焦りや不安はまだ消えない。でも、目の前のこの小さな出来事が、私に何か新しい一歩を踏み出す勇気をくれた気がした。

佐藤さんがラジオの音量を少し上げた。アナウンサーの声が、台風が夜には過ぎ去ると告げていた。店の窓には雨粒が流れ続けていたが、その向こうに、ほのかな光が見えた気がした。

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